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研究室の挑戦

発酵と腐敗のボーダーラインとは!?


昔の人は、スゴイ。
納豆、くさや、干物、漬物、醤油、味噌、チーズ、ヨーグルト……。
私たち人類の祖先は冷蔵庫さえなかった大昔に知恵を絞り、
長期保存の利くたくさんの「発酵食品」をつくり出した。
現代科学の観点からしても、何の実験設備も持たない先人たちが
そのような食品を製造しえた事実には、
ただただ驚くばかりである。
彼らが過去にどうやってその偉業を成したのかは“わからない”。
しかし、意外なことに、
発酵食品に関しては科学の発達した現代でも“わからない”ことが多いという。

暮らしの身近な存在である発酵食品というラビリンスを覗くと、
そこにはユニークさと可能性に満ちた
奥深い世界が広がっていた―。

納豆が“腐っている”は
正しくて正しくない
深夜に親の目を盗んで、冷蔵庫の中のモノを食べようとしたら腐っていた、なんて経験はないだろうか。それがナマモノなら手を出した自分が悪いとまだ諦めがつくが、チーズや納豆といった発酵食品を口に入れた瞬間に強いアンモニア臭がしたなら、わなわなとやり場のない怒りに苛まれるだろう。そして水道水で懸命に口をゆすぎながら、こんな疑問が頭をよぎるはず。「っていうか納豆って、もとから腐ってるんじゃないの? どこまでが発酵で、どこからが腐敗?」。その解に対する学術的な定義は、極めてシンプル、だが、この上なく曖昧だ。なんと「人にとって有益であれば”発酵”で、有害であれば“腐敗”」だという。それだけでは何がちがうのかイマイチよく分からない。一体どういうことなのだろうか。

たとえば、大豆を煮て特定の枯草菌を増殖させた納豆は“発酵”と呼ばれるが、煮豆を放置し野生の枯草菌などが増殖して悪臭が生じると“腐敗”と呼ばれる。また、乳酸菌の作用で糖類が分解されて乳酸が生成されたヨーグルトは“発酵食品”だが、牛乳を放置することで雑菌が増殖した場合、さらに乳酸が生成されても、ただの“腐った飲み物”となる。つまり発酵も腐敗も「起きている現象は同じ」なのだ。

厄介なのは、嫌な臭いがしたら腐っているのかというと、必ずしもそうではないこと。腐敗が進むと微生物が増殖して腐った玉ねぎのような臭いを放つ。この臭いは口臭成分のひとつでもある“メタンチオール”によるものであるが、適量であれば食べ物の風味をよくすることに役立っており、芳醇なチーズの香りの主成分でもある。ならばどうやって見分けるのか。それは、科学的に起きている現象が同じである以上、「人の価値観」にゆだねられているのが現状である。それが好きな人にとっては発酵食品であるし、嫌いな人にとっては腐った食べ物なのだ。初めて納豆を食べる外国人が「腐っている」というのは、彼らにとっては正しく、日本人にとっては(嫌いな人を除いて)正しくないのである。
もちろんこの見分け方は食品中に食中毒菌が含まれている場合を除くが、食中毒菌の有無自体は今回のテーマとはまた別問題。腐敗により食中毒菌が増えやすい状態になるのは事実ではあるものの、腐敗していなくても食中毒菌を有している食品があるといえば、ご理解いただけるだろう。

イクラとスジコのちがいは
発酵の歴史に一石を投じるか!?
それではなぜ、これだけ「食の安全」が叫ばれている世の中で、極めてあいまいな定義である発酵食品の販売が認められているのか。それには“食経験”なるものが深く関わっている。
食経験とは読んで字のごとく、これまでに数百年、数千年と食べられているのだから“まず安全だろう”とする考え方だ。非科学的だと感じるかもしれないが「何世代にもわたって繰り返されてきた究極のヒト試験」との見方もあり、そう言われれば、確かにそれを上回る安全試験はないのではないかとも思える。味噌や醤油やチーズやピクルスやキムチが長期間熟成するにもかかわらず安全とされているのは、この食経験に帰依しているから。確かに、まったく新しい発酵食品が開発されて「安全です」と勧められたところで、怖くて食べられやしないだろう。ご先祖様々である。

だからといって研究がされていないわけではない。腐敗と発酵の境界領域について「食品微生物学」の観点から研究している宮地竜郎准教授が、こんな話題を提供してくれた。
「現代は過度の衛生思考というか、行政レベルの衛生管理というと、とにかく“菌をゼロにする”ことが求められがちなんですね。それとは対照的に、私は塩漬けや干物といった非加熱食品、言うなれば菌だらけの食品を研究しています。それは、菌には人に有害なものだけではなく、おいしさや風味をよくするなど有用な働きをしている菌もいて、その中には悪い菌の繁殖を防ぐ菌もいるのではないか、その仕組みが分かればより食の安全に貢献できるのではないか、というスタンスなんです。いろいろなテーマを設定してやっていますが、そのひとつに“スジコ”があります。イクラとスジコのちがい、分かりますか? イクラは塩を振って一晩ほど熟成させたらすぐ出荷するんですが、スジコは塩を振って4℃で一週間ほど寝かせるんです。そういう製法のちがいだけではなく両者は菌数が全然ちがっていて、スジコは0が3つ、3桁も菌が多いんです。にもかかわらず食中毒の件数を比較するとイクラの方が圧倒的に多くて、スジコはほぼならない。おそらく菌のバリアーの働きで、食中毒菌が付いてもはびこらないようになっているのではないかと予測しています。この原因が解明できれば、雑菌のポジティブな機能を提示できる可能性があります」

塩漬け、砂糖漬け、乾物、発酵食品などを含めた伝統食品は、まだまだ微生物がどういう関与をしているか解明されていない。しかも発酵食品の安全は先述の食経験で認められている部分が大きいため、食品業界の大多数を占める中小企業では新製品の開発は難しいという。安全評価の試験には億単位のコストがかかってしまうからだ。それゆえに、次なる私たちの食卓においしさと安全の彩りを加えて皆を笑顔にしてくれるのは、利益を優先せずに純粋に研究を進めることができる、どこかの研究室なのかもしれない。

ライター:志馬 唯

静岡理工科大学 宮地 竜郎 教授

“フードチェーン”という食品の原料生産、加工、流通、消費に至る過程で発生する腐敗現象に着目し、細菌による窒素や硫黄を分子中に含む腐敗産物の産生や分解について研究している。「どういう微生物がどういうメカニズムで食品にいい影響、または悪い影響を与えているか、それを解明しようとしています。ゴールは食の安全ですが、広く言うと品質。その品質の中には、安全もおいしさも含まれています。可能であれば、新しいスタンダードになるようなことを実現したいですね」
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